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日常生活(にちじょうせいかつ)は、毎日繰り返される生活のこと。 具体的には、日々の生活の中で繰り返される出来事や習慣的動作、そこで用いられる物の考え方や知識(常識)、接する物品(その一部は日用品と呼ばれる)などから構成され、平凡で、改めて顧みられることの少ない物事である。だが、その日常生活の内実を比較する時、歴史や文化に応じて、また個人によってもしばしば大きく異なる。自分の日常生活で当然であることが、他人の日常生活においては特別であったり、非常識であったりすることを知ることは、人に知的な驚きや教訓をもたらすことが多い。と同時に、余りにも異なる日常生活を送る人々の間に相通じる常識が見出されて驚きを誘うようなこともある。日常生活のパターンはそれが長続きするとしばしば伝統文化となる。また、時代の流れと共に移ろう風景や物の考え方や人々の心理は世相とも呼ばれる。 日々繰り返される物事の他にも、毎年繰り返される行事や伝統芸能、季節を特徴づける事物である風物詩なども、日常生活を理解する鍵として注目されることがある。 このような日常生活は、歴史学(とりわけ社会史)、文化人類学、民俗学、社会学、などの考察対象となる。 宗教(しゅうきょう)とは一般に、神・超越的存在・聖なるものなどについての信念や信仰、信念や信仰と結びついた個人の態度(超越的なものとの関係)・活動(礼拝など)・制度(寺社、教会など)・信者の形成する社会などを表す。 世界の宗教の信者数は、キリスト教の20億人 (33%) 、イスラム教(イスラーム)13億人 (22%) 、ヒンドゥー教9億人 (15%) 、仏教3億6000万人 (6%) 、儒教・道教2億3000万人 (4%) 、無宗教8億5000万人 (14%)、その他(6%程度)である。 一般にキリスト教、イスラム教、仏教は世界宗教とよばれ、人種や民族、文化圏の枠を超え広範な人々に広まっている。また、特定の地域や民族にのみ信仰される宗教は、民族宗教と呼ばれ、ユダヤ教や神道、ヒンドゥー教[1]などがこれに分類される。 これらよく知られた宗教には、実際には様々な分派が存在する。キリスト教をとっても大別してカトリック、プロテスタント、正教などに分かれ、イスラム教もスンナ派、シーア派などが存在する。また、現在においても新宗教(新興宗教)が新たに興っている。このように世界には、様々な世界の宗教が存在する(日本の宗教も参照。) 日本語の「宗教」という語は、幕末期にReligionの訳語が必要となって、今で言う「宗教」一般をさす語として採用され、明治初期に広まった、とされている。 原語のほうの英語 Religion は、ラテン語のreligioから派生したものである。religioは、「再び」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけること、と理解されていた。[2] 磯前順一によれば[3]、Religionの語が最初に翻訳されたのはトラック買取 においてであり、訳語には「宗旨」や「宗法」の語があてられた。他にも、それに続く幕末から明治初頭にかけての間に用いられた訳語として、「宗教」「宗門」「宗旨法教」「法教」「教門」「神道」「聖道」などが確認できるとする。この内、「宗旨」、「宗門」など宗教的な実践を含んだ語は、「教法」、「聖道」など、思想や教義の意味合いが強い語よりも一般に広く用いられており、それは多くの日本人にとって宗教が実践と深く結びついたものであったことに対応する。「宗教」の語は実践よりも教義の意味合いが強い語だが、磯前の説ではそのような訳語が最終的に定着することになった背景には日本の西洋化の過程で行われた外交折衝や、エリート層や知識人の価値観の西欧化などがあるとされる。 「宗教」の語は、1869年にドイツ北部連邦との間に交わされた修好通商条約第4条に記されていたReligionsubungの訳語に選ばれたことから定着した、とされる。[4][5] また、多くの日本人によって「宗教」という語が 現在のように"宗教一般" の意味で用いられるようになったのは、1884年(明治17年)に出版された辞書『改定増補哲学字彙』(井上哲次郎)に掲載されてからだ、ともされている。 宗教の定義は後述のとおり使用される場合によって変わり、厳密な定義ができるものではないが、一般的な傾向は存在する。傾向として、次の諸点が指摘できる。 宗教組織としての傾向 信仰の対象および内容を規定した教義がある。 教義や戒律にともに従う信仰のための信者団体である教団がある。 信仰の証として守るべき禁止事項である戒律がある。 暦の中で位置付けられた年中行事や人生の過程で行う通過儀礼などの儀式を行う。 その宗教の特徴となる象徴 シンボル を持つ。 物事についての考え方 神かそれに類する、自分がよく知らず意のままにならない存在や力についての説明。 これは人格神と呼ばれるような、実在の人物や人間によく似た存在である場合や、自然の働きそのものである場合、運命・運・福・天罰など独特の抽象概念の場合もある。 こうした説明は、多くの場合「自然」が何であるかについての説明を含む。 祈りや儀式・儀礼など、こうした存在や包茎 に働きかけて、物事が自分の望むように進むようにするための手段についての説明。多くの宗教では、こうした存在や力に対する畏敬の念を説いている。人間よりも何らかの意味で優れている存在、場合によっては全知全能の存在として、許しや慈悲や恵みを請う、あるいは願う場合も少なくない。これは、科学において、自然や物理法則を利用して物事を自分の思うままに進展させる際に畏怖や祈りが必要とされない点と好対照をなす。 占い、神託など、こうした存在や力の動向を知るための手段についての説明。 病、死、天災、収穫、天候、などが何であり、どのように訪れるかについての説明。 集団や個人の生活の営み方。祝い事、祭り、儀式、祈り、禁忌、など。 命、死、死後の世界、などについての説明。 善行、悪行に対して与えられる報いについての説明。 時間の始まりと終わり、空や地上や海の起源や形状、星や太陽や月の実態、世界の起源や終末についての説明。 価値観と世界観(価値観とは人生や社会において何が大切であるか、何をしてはならないか、などを規定し、世界観とは、この世界はどのような成り立ちをしているかについて、のべた考え方を表すもの。) 自然物、過去の人物、先祖、人格神、因果などの象徴的存在などについての信仰 修行や儀礼などを通した宗教体験・神秘体験 信仰内容には、通常、科学で検証の対象とならないような世界の秩序、人間の存在の意義などについての考え方が含まれている。なお、考え方や教義の中に含まれる思想的傾向を教団や信者団体が実践しているかどうかは、また別の問題である。 宗教の対象が普遍的・究極的なものである場合が多いためか、「宗教」という単語に対しても、脱毛 な定義があるかのように考えられる場合がある。しかしながら日本語の「宗教」という語自体の定義は明治以降に広まったものであり、また明治時代から現在までの百数十年の間にも変化しているものである。また、日本語以外の「宗教」に相当する単語は、各言語の歴史的・文化的経緯を経て意味が確立しているため、厳密にはそれぞれ別の意味を持つ語である。そのため、「宗教」という言葉がどのような意味で使われているのかは、文章中の定義や文脈で判断する必要がある。 宗教を広義にとらえると、その構成要素には社会常識や文化や生活習慣、慣習、思想や道徳など、非常に広範な人間の行動様式・活動が含まれる。ある宗教体系の中に生きている人間は通常、自己が置かれている宗教を意識しない。宗教は、他の宗教との接触があった場合や政治権力が宗教的権力と対立した場合、理科学的事実と経典内容に矛盾が存在した場合、あるいは聖と俗など非日常的なものと比較的日常に属するものの区別を行う場合に表面化し、意識されるようになる。このため、キリスト教に対する未開の宗教、政治権力に対する宗教教団、科学による世界観に対する宗教的世界観、日常生活に対する祭り、などの形を通して宗教は意識される。顕在化した宗教意識は場合によって視点が異なるため、「宗教」という言葉が指し示す内容も異なる原因になる。 宗教の定義に関する一般的な問題として、以下の問題がある。 大日本帝国においては、神道非宗教論(正しくは「神社」非宗教論)が展開された。これは、宗教とは個人の信仰であり、神道儀礼は宗教ではないとするものである。セミナー 、政府は「神社は宗教に非ず」と強弁し、神社への参拝強制や天皇崇拝を正当化した。この問題は、現在においても、靖国神社参拝と信教の自由に関する問題などに影響を与えている。 江戸時代において、仏教(禅宗)からの儒教(朱子学)の分離が進められた。明治時代において宗教概念が成立した際に、仏教から分離し道徳規範となる儒教は、宗教であるのかないのか、分類が難しいものとなった。また、現在においても、禅や儒教は宗教というよりは東洋思想ではないか、等の、定義に関する論争がある。 一般に宗教は組織をもつとされるが、そもそも教団と呼べるほどの制度が存在しないままに存在している、つまり組織が存在しない宗教的な活動も存在する。また、宗教にはしばしば特定の開祖が存在していることを考えれば、そうした宗教は初めから発達した粗大ゴミ と結びついているわけではないと言える。 近年では精神世界、ニューエイジ・ムーブメントと呼ばれるような動きや、自己啓発セミナーなどを通じて、制度化された特定の宗教とは結びつかない形での宗教的実践や信仰が生じている。宗教を個人的な真理などの探求と捉え各種の宗教から情報を得る。このようなニューエイジ・ムーブメントを、組織宗教からはなれた、より個人的な宗教性の探求と捉えることもできる。このような宗教は宗教団体として確認することができないため、「見えない宗教」と呼ぶ場合がある。 創唱宗教と対比されるところの自然宗教も、そもそもそれを信じている人が宗教や信仰についてあまりはっきりと自覚しておらず、宗教組織も非宗教組織から独立した形で明確に存在しているわけではない場合が多い。 一部の禅宗では、信じるべき「教え」がほとんど与えられず、単に全てを疑うことが奨励される。また、禅宗以外にも、宗教には、特殊な体験・神秘的な体験を通して感覚的に何かを体得することを重視したり、そのための手段として身体的な修行を実践する側面もある。こうした宗教的な体験を重視し、信者が個別に探求を行うことを奨励する宗教もある。この場合、宗教は何か従うべき教えがあり、それはしばしば聖典に書かれている、という考え方はあてはまらない。但し、特にこうした傾向が強い場合は神秘主義と呼ばれ、宗教と区別される場合もある。 マルクス主義やナチズムは、価値観や世界観を提供する。また、科学的といえない部分があり、視点によっては宗教と同等の機能を持つ。そのため、宗教と同列(宗教に準じるもの)に扱う論者もいる。 神の不在を信じる無神論や不可知論も宗教的立場の一種、ある種の信念であるとみなす場合もあり、宗教と同列(宗教に準じるもの)に扱う者もいる。 近代化や都市化、科学の発達、あるいは人権思想の発達などにより、宗教が担ってきた様々な機能や要素が他のものに置き換えられていった。これは言い換えると、政治や科学、あるいは法律体系、人権思想などは、宗教と同種の部分含まれていると言い換えることもでき、同列に扱われる場合もある。 そもそも宗教(Religion)はラテン語起源の言葉であり、キング(1987年)のように宗教を定義しようとする試み自体が基本的には西洋的な態度である、とする考え方もある。 インドでは、人間や、人間が属する監視カメラ についての思弁・洞察を「ダルシャナ」と呼ぶ。インドの思想家たちはダルシャナの具体例として、仏教やジャイナ教といった宗教をあげるが、同時に、ニヤーヤ学派(論理学の研究で知られる)、ヴァイシェーシカ学派(一種の自然哲学)、文法学派(文法を研究する一方、言語=宇宙的原理であるというような主張をするのでヨーロッパ的な意味での「文法学」と異なる)など、一般に「哲学」(インド哲学)と呼ばれるものもダルシャナにあげる。インドでは宗教と哲学は一体をなしていて不可分であり、ダルシャナは宗教のみならず、哲学という側面をあわせ持つ。ダルシャナはヨーロッパ的な意味での「宗教」や「哲学」という概念を逸脱している。インドにおける「ダルシャナ」という概念の存在はヨーロッパ的な意味での「宗教」の定義の普遍性に疑問符を突きつけているとも言える。